2008年02月14日

内のわたしは、わたしに気づいて欲しいと願っている。

わたしは、思っていることと口に出すことが違っている。

ものすごく、逢いたいのに、「用事があるからもって行くね。」とか、
仲良くなりたくて、話したいのに、黙っているとか。

とにかく、素直ではない。

自分の本当の思いを素直に表現できていない。

わたしの好きなものは、これなんだ〜と言えない。言わない。
言ったとしても、やっとだ。

なんだってこんなに素直ではないのだろうか。

ただ素直な気持ちを口に出すだけなのに。

明るい気持ちで、ただ楽しんで言うだけなのに・・・。

いつもかまえて、口に出している。

これが、思いをゆがめるのだな^^;

本音と建前の世界にいるのだな〜と思った。

もっとふつうに自己主張したいなと思った。

『言いたいことが言えない人 恥ずかしがり屋の深層心理』加藤諦三著から抜粋


恥ずかしがり屋の人は、迷惑をかけて嫌われることを恐れる。図々しい人だと思われることを恐れる。
その恐れや不安が先行して、「こうしてほしい」という自分の願望をはっきりと伝えられないのである。

人と効果的にコミュニケーションするためには、自分に自信があると同時に自分と相手の関係がわかっていなければならい。

自分はいま、親と話しているのか、恋人と話しているのか、昨日知り合った人とはなしているのか、今日はじめてあったビジネスパーソンと話しているのか、目上の人と話しているのか、お世話になった人と話しているのかなどの関係がわかっていなければならない。

恥ずかしがり屋の人にはそれがない。社会的距離感が理解できない。
さらに恥ずかしがり屋の人には自分を守る意識が強すぎる。自分をよく見せようとする気持ちが強すぎる。それなのに、相手に対する関心はない。
そこで、うまくコミュニケーションできない。

恥ずかしがり屋の人は、自分の気持ちを言わなければならない。恥をかいてもいいから、言う。

そこで世界が広がる。
自己主張というのは我を張ることではない。
自分のことを説明するのが自己主張。
言うべきことを言うのが自己主張。
人を無視したことを言うのはわがまま。


人は同じ価値観で、同じ生活習慣というわけではない。だから、恥ずかしがり屋の人にとっては、ことさらコミュニケーションが難しい。

恥ずかしがり屋の人は、沈黙に耐えられなくて、人といると何か話さなければという気持ちが強い。

中略

恥かしがり屋の人は、今まで心理的に健康な人よりもがんばって生きてきた。態度価値を忘れてはならない。
現実はあるがままに受け入れなければならない。大切なのはその後である。
「それにもかかわらず、私は価値がある」と自分に誇りを持つことである。
実際、理想の環境に生まれ、理想の環境で育った人で偉大な人というのはいるだろうか。
偉大な人とは、その環境でない環境を乗り越えたひとなのである。

恥ずかしがり屋の人は、恥かしがり屋にならざるをえない環境に生まれた。そのことを、「わたしは神から愛されている」と解釈することである。



この本を読んで、わたしの中にいるもう一人のわたしを見ているようだった。

表には出さない、内のわたし。

その奥底には、憎しみと怒りと自分が嫌いというわたしである。

わたしはこれまで、自己探求してきて、自分を愛することをしてきた。
模索してきた。

内にいる闇の自分を認めずして、自分を愛そうとしてきた。

それは、内のわたしを置き去りにして、先に進もうとしてきたことだろう。

それは、自分にうそをついている。自分が嫌いということを無視してこれまで来た。

今はあるがままの闇の自分を見つめなさいといわれているのだと思った。

嫌で見たくなかった自分を。


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